床屋嫌いの子

おかっぱ1960〜70年代の子供たちの髪型は、男の子でいちばん多かったのが、「坊ちゃん刈り」でした。後ろはバリカンで刈り上げて、前髪は眉の少し上で横にまっすぐ切りそろえる、ちょうど皇太子様や秋篠宮様もそんな感じでした。庶民の子は宮様よりは髪をやや短めにする子が多かったと思いますが、それは床屋に行く回数を減らして床屋代を浮かすためでした。
男の子では、他には、七三に分けたり、スポーツ刈りの子もいました。

女の子で多かったのは、「おかっぱ」というか、ボブヘアでした。あごくらいまでの長さで、ちょうど紀宮様もそんな感じでした。
髪の長い子は三つ編みに編んでおさげにしてました。
「おかっぱ」と同じくらい多かったのが、ショートカットというか、後ろをボーイッシュにカットする髪型で、山口百恵のような感じです。

男の子の坊ちゃん刈りが、一ヶ月くらいたつと、髪が伸びて女の子のショートカットに似てくるわけです。前髪が伸びて眉まで隠れるようになって、この状態で内緒でスカートでもはいてみれば、どう見ても普通の女の子です。だから床屋が嫌いになるわけですよね。

床屋さんで終わった後にくれるチューインガムや飴には、よくだまされたものです。
それでも床屋が嫌いな子のことを、家族はどう思ったのか、床屋で大人が世間話をしている雰囲気が嫌なのだろうとか、どう思ったのかはわかりませんが、バリカンやハサミを買ってきて、ホームバーバーということになってしまいました。なかなか世の中は思うようには行かないものです。


口笛の思い出

木々の新芽子どものころは、口笛を吹く子は不良になると思っていました。そのように教えられたからなのでしょうけど、だから口笛は今も吹けません。
たぶん口笛は大昔から山の精霊を呼び出すための手段だったので、日常の生活では吹いてはならないものとされ、そういうタブーの歴史の名残りなのかもしれません。

アニメドラマの「アルプスの少女ハイジ」で「口笛はなぜ遠くまで聞えるの」と歌われたのは、山の生活が背景にあったからなのでしょう(西洋も東洋も似ていたということ?)。有名な国文学者の小説に口笛に関してのものがありましたが、タブーへの挑戦の意識もあったのかも。

小学生のときに姉に呼ばれて行ってみたら、姉が突然口笛で童謡のフレーズを吹いて聞かせたのです。私はびっくりして、どうすれば吹けるようになるのか聞いてみたのですが、姉はいたずらっぽく微笑むだけでした。大人たちの前では吹けないけれど、子どもたち二人きりのときにちょっと吹いて見せたのでしょう。姉の口笛を聞いたのはそれ一回きり。私も口をとがらせて吹く練習をしてみたのですが、ひゅーひゅーと風の音がするだけでした。


お手玉のこと

白っぽい背景だいぶまえに「子どものころの遊び」と題して、あやとりが好きだったことを書いたことがあります。お手玉はちょっと苦手でした。平衡感覚のせいかもと書いたのですが、少し違うかもしれません。
「お手玉の効用」という解説によると、
「お手玉をすると、まず、脳の活性化、集中力、瞬発力、姿勢もよくなり、何よりも笑顔が出ます。笑いの中枢は右脳にあり、医学的には、鎮痛効果と免疫力を高めることがわかっています。また、適度な運動で体を温めることが、疲労を解消し、脳の血流を増します。お手玉のリズム感は、脳内のセロトニンを上昇させ、心を安定させることができ、前頭葉の訓練になる演舞などは、痴呆・老化防止、機能回復、ストレス解消等に効果があります」
……だそうです。少し練習してみましょうか。

平衡感覚といえば、からだのバランスをとるのは、鳩子は子どものころからまあまあだったと思います。運動は全般的に苦手でしたが、自転車はすぐ乗れたし、スケートもまあまあ。ハイヒールも好きです。
お手玉は、反復練習を続けてゆく根気が必要なのかもしれません。


名前と、呼ばれかた

鳩子あたしの名前は、ホームページを始めるときから「鳩子」になりました。最初の1年くらいは呼ばれたとき慣れない感じがしたのですが、今はもうすっかり慣れました。
その以前は別の名前で、2通りの読み方がある名前でした。どっちで呼ばれても返事をしてたせいか、なんとなく自分にしっくりこないところがありました。やっぱり鳩子という名前がいいですね(ほんとはマ行の音が入ってる名前も好きなのですけど ^^ゞ)。

子どものころ(男の子ですが)小学校6年生まで、家族や近所の人には、ボクと呼ばれてました。幼い子にはよくあることなのでしょうが、こういうのはもっと小さいときに直すべきだったのでしょうね。もちろん学校では違いますし、「ボク」の意味する内容は子供なりに知っていました。でも学校以外では、「ボク」という声がすれば、あたしのことだったのです。近所には自分のことをボクという男子は他にいなかったので、話がこんがらがることもありませんでした。
でも中学生になってから周囲からの呼び方が変わり、自分自身もボクという言葉の使い方がわからなくなって内向的になりました。主語のない会話しかできなかったのですが、男子の大学生のころ女の子の友だちの前でボクと言ったことはあります。その後だんだんワタシとかアタシとかを使えるようになって、いちおうは大人になったわけなのでしょう。
http://hatopia.blog10.fc2.com/blog-entry-298.html


模型と人形

観音堂27日に書いたのは、「悲しみの手鞠唄」。悲しい物語だけれど、気に入っています。

話は違いますが、小学校6年生のとき東京神田の交通博物館で見た鉄道模型は、駅舎を出た列車が鉄橋やトンネルを通過し、都会の風景や農村の風景の中をめぐりめぐる、異次元の世界を見るような、とても魅力的なものでした。けれど鉄道模型は小規模のものでも大変なお金のかかるもので、大人の趣味というものでした。
大学生になったころ、1/150スケールのより小型の鉄道模型が普及してきて、小さなテーブルサイズの情景模型を作ろうと挑戦してみたことがあります。けれど1/150では小さすぎて細かな自作は難しく、完成はあきらめてしまいました。それよりサイズの大きめの1/80スケールプラモデルの機関車や、同じスケールの建物模型などを本棚に飾っていました。

1/35のミリタリー模型を見たのもそのころです。戦場でひとときの休息を楽しむ兵士たちの人形などは、とてもリアルで表情豊かなものでした。兵士の人形を加工して従軍看護婦さんに作り変えたり、海辺でバカンスを楽しむ若い男女の人形に作ったり、映画の1シーンを見るようで、器用なものだなと思いましたが、自分ではやりませんでした。
人形を飾るなら木製の本格的なドールハウスといきたいところでしたが、プラスチックのリカちゃんハウスで満足しました。今欲しいのは雛人形でしょうか。
おもちゃ屋さんで、実際に縫えるおもちゃのミシンを2万円くらいで買ったことがあります。今なら2万円あれば大人用の卓上ミシンのいちばん小さいのが買えます。おもちゃのミシンは、電源は乾電池で、模型用のマブチモーターが回ってるような音がしてました。


抱きしめたら折れそう?

パイナップル前回記事と同じ時期の写真で、スカートも子供服です。スカート丈も短いですが、なんていうんでしょうか、子供服なので当時はやっと入ったと思います。ファスナーをいっぱいに下げて入りました。ウエストサイズの表示は60で実寸は62くらい。大人のスカートでこのウエストサイズなら、ヒップ周辺はもっと余裕をもたせて作られていると思います。

……62が入ったんですね。
当時はサイズを聞かれても、ウエストはおなかに力を入れない状態の66と答えてましたが、ウエストニッパーを着けると63くらいになって、62でも大丈夫だったわけです。抱きしめたら折れちゃいそうに見える写真です。

当時いただきもののスカートで、ウエスト実寸70のものがあったのですが、66と答えてたのが原因みたいですね。本人は66と答えたけど実際はたいてい少し大きめなのだろうから、試着して恥をかかせては悪いから、少し大きめのサイズをプレゼントしよう、という親切心だったのでしょうね。


子供服コーナーで

黒いブラウス1980年代も終わりのころ、日本はバブルの全盛で、女性たちは大きな肩パッド入りの服装がはやっていたころでした。

お店で売っているものは、ブラウスもカーディガンも肩パッド入り。そういうのを見ていてもあきるだけでしたので、なんとなく子供服のコーナーをのぞいてみました。
子供服のサイズは「身長○○cm用」という表示が多いのですが、最近は大きい子もいますから、身長160cm用というのもあります。このくらいになると、もう大人のサイズと同じです。
そんな中から見つけたのが、写真の黒いブラウスです。
襟のかたちも、袖のかたちも、可愛い感じでしたけど、色が黒なので子供服には見えないかもしれません。

それにしても、着ている人も、やけに細かったのですね、このころは ^^;
こういう体形には、もう絶対に戻れることはないのでしょう……

★子供服ですが若干肩幅が大きめなのは時代の反映なのかも。
1970年代前半の子供の写真(「れんげ草の花輪」)にもロングスカートが見られましたし。


神隠しの午後

山茶花子どものころの好きな遊びに木登りがありました。
家にあった古い椿の木は、地上から2メートルくらいのところの枝2本が曲がっていて、縦横30センチくらいの菱形の枠の形をしていました。小学生の私は、その枠をくぐり抜けてもっと上へ登ってゆくことができました。木の上から"下界"を眺めながら、ぼんやり過ごすのが好きな子どもでした。
ある日の午後、木の上に登っていたら、下で母や家族が、私がいないといって探している声が聞こえました。でも私は木の上から降りたくありませんでした。かなり時間がたってから、私はこっそり木から降りて、何食わぬ顔をして家の中に入りました。神隠しにあったのかと思ったと言われて、叱られました。
高校生になったころ、その木に登ってみたとき、あの枝の枠の中には、頭は入りましたが、からだはもう入りませんでした。

別の話ですが、納戸(なんど)で古着のワンピースやスカートを着て遊んでいたとき、姉が私を探して近づいて来るのがわかりました。私は押入れの中に入って、音をたてずに静かに戸を閉めて、息を潜めていました。姉の呼ぶ声に返事はしませんでした。そのときどういうふうに思われたかはわかりません。
(写真は山茶花の前で)


あるはにかみ屋さんの話

謎のフレーム子どものころは、写真映りが良いとよく言われました。たぶん、はにかみ屋さんの子どもだったので、いつもうっすらと笑みを浮かべていたからだろうと思います。
いやな思い出のある写真も微笑んで写っていました。車に酔ってゲーゲー吐いた直後の写真も楽しそうな笑顔をしていました。先日テレビで見た沖縄の人たちが、苦しかった思い出を微笑みながら語っていたのをおぼえています。どんな顔をしていいかわからないときは、微笑むしかないというのもあるかもしれません。
写真は思い出に虚構の世界を調味してくれます。

男子の中学生のときのある日、学校内で突然知らない上級生の男子に呼び止められ、「お前はオレを見るといつも笑っている。オレの顔がそんなにおかしいか」と言われました。私はびっくりして怖くて何も答えられなかったのですが、たまたま通りかかった同級生の子が、この子はそんな子じゃないとかばってくれたので、大事には至りませんでした。
その上級生も思春期の自意識過剰な時期だったのでしょう。そんなことがあると、私のほうもだんだん無表情を作るように意識してしまいます。
女子だったらいつも笑みを浮かべていてもインネンを付けられることはあまりなかったかもしれません。でも愛嬌をふりまく大人びた子に見えるかもしれませんね。

セルフ写真に凝り始めた1990年代初めは、笑わない写真が多かったのです。一人ですからしょうがないといえばしょうがないのですが、だんだんまた一人で意味もなく笑うことができるようになりました。


子どものころなりたかった職業

木陰子どものころ何になりたかったかということは、あまり人前で話したことはないのですが、いくつか思い出してみます。
ずっと小さいころは、はっきりしないのですが、小学校5、6年のころは、漫画家と、おもちゃ屋さん。よくある話です。
中学生になってもいちおう漫画家で。それからフォーク歌手への憧れが少しありました。でもすぐにニューミュージックというのが出て来て、忘れちゃったのかもしれません。その後は、イラストレーターや小説家。みんな趣味の延長上のことばかりです。そんな憧れを抱いていた私は、男でもなく女でもなく、またどちらでもあったのかもしれません。

70年代初めの、もう消えて行きそうだったフォークソングの、ギターやバンジョーの響きが、最近とても懐かしく感じられます。
最近テレビ番組で聴いて良かったのは、西岡たかし氏が亡くなった高田渡のことを偲んで歌った「白湯」。
それから森山良子の歌でタイトルは忘れましたが「30年を2時間半で」という歌詞のある歌で、むかし憧れてた男性と30年ぶりに再開してお茶した2時間あまりのことを歌った歌でした。


自分の写真をぜんぶ燃やしちゃったとき

写真22〜23歳ごろのことでした。
あたしは、なんとなく気分がウツ状態で、
部屋にあった子どものころからの写真を集めて全部、燃やしてしまいました。
男の子の姿で写っていた写真を全部、ということです。

ここまで書くと、すごく深刻な話に思う人もいるかもしれません。
とても悩んだ末に、これからは女だけで生きて行こうと決意したみたいな?

その"事件"の少し前に、ある雑誌のインタビュー記事で、ある女性シンガーソングライターが、同じように写真を燃やしたという記事を読んだことがありました。それで、自分が憂鬱な気分になったときに、そのことが頭をよぎり、とっさに真似してみただけなのです。ただそれだけの話。

人の行動は、模倣に始まるともいいます。友人が男性と逢ってきたと聞けば、自分も真似て、男性と逢ってみたくなります。でも男性と逢った後に起こる出来事は、模倣ではないと思います。けれど、写真を燃やした場合は、その後には何も起こらないのです。
そのときの憂鬱の原因が何だったのかは、よく思い出せません。写真を燃やしたことだけがはっきり記憶に残っています。
こんなあたしの日記でも、どなたかの記憶に残ってしまって真似する人がいないとも限りませんので、自己責任でお願いします。
あとで小学生までの写真が少し実家に残っていることがわかりましたが、中学生以後の写真はみんななくなってしまい、後悔しています。


青春を懐かしく語る

鏡像鳩子のページの記事の特徴としては、最近は年齢のことを気にしすぎかもしれません。

もともと以前から、失われた時間の思い出をせつなく懐かしむようなことをよく書いてましたので、そういう方向でならいいのですが、あまり現実的すぎてもいけません。

ずいぶん昔にいただいた手紙のうち、"力作"と呼べるようなものが記念にいくつかしまってあります。それを読むと、かつて文学青年だった熟年男性たちが、ラブレター(?)にことよせて、自らの青春を懐かしく語ることに主眼があるのだということに気づきます。それぞれの青春は、それぞれ一つの時代なのでしょう。悪くないと思います。

さて、もう一つの特徴としては、「男女のからだのサイズ」などに見られる、細かいディティールへのこだわりがあると思います。これについては、後日ということで……


変な夢

両手を前以前見た夢の話。
散歩してたら、向こうから歩いてくる人たちに見覚えがありました。それは高校のときの先生と生徒が2〜3人。気づかれたくなっかたので、あたしは歩道のそばの自動販売機の陰に隠れたのです。見つかったらもう学校に行けなくなると思いました。
でも変だなと思いました。高校生のころはこんなミニスカートで散歩なんかしたことはないし、変だとは思ったのですが、先生たちはどんどん近づいてくるので、そのことで胸はドキドキ、どうしよう、どうしようと思っていました。
そのあとはよくおぼえていません。
卒業して何年かたってからのことを夢で見たのかもしれないのです。

最近の夢は、カムアウトしてない人にカムアウトしてることになってる夢が多いです。でも詳しいことはすぐ忘れてしまって、よく思い出せません。


電話をするためにお化粧して

電話BOXその昔よくお手紙をもらってたころは、手紙に電話番号が書いてあると、なるべく電話してました。散歩の途中で公衆電話を探してかけたり、つまり散歩のついでが多かったのですが、でもその逆に、電話をするのが目的で散歩に出かけることありました。もちろんちゃんとお化粧してですから、電話をかけるだけのために、お化粧したり可愛い服を着たのです。あたしもなかなか可愛いところがあったわけなんですね。

今はメールをするだけのためにそんなに大げさなことはしません。ごめんなさい。でもたまに家で湯上がりの薄着すがたのままメールしてることもあるかもしれませんね。

お化粧や可愛い服によって身も心も女の子で電話してたのでしょう。ネットではそういうのが不十分になりやすいというか、ネットそのものがバーチャルな雰囲気ですから、ネカマさんもいるし、人には言えないような姿で書込みしてる女装(じょそう)さんもいるかもしれません。
鳩子としてはやっぱり見えないところも大切にしたいです。


求友メッセージをもう一度

観音さま昨日、掲示板やコメント投稿してくれる人はそんなに大事でないなんて書いてしまいましたが、コトバのアヤというもので、やっぱりうれしい書込みやメールはたくさんいただきました。
メールで無条件にうれしくなってしまう言葉は、『くぃーん』見てました、「貴女のファンでした」というの。ほんとに旧友に会えたときのような感じ。

きゅうゆうといえばあの雑誌の「求友メッセージ」。もう一度投稿してみたいです。2、3年前の水着(みずぎ)姿の白黒写真を添えて、ポエム風にメッセージを書けば、お手紙5通は来るかも。返事は昔みたいでなく早めに書くことをお約束します。便箋に何枚も何枚も書いてある手紙の時代でした。もうあの雑誌はありません。
さて最近のネット時代の男性の困った点というのは、相手が想定外の反応をしたときに、対応がよくできずに思考がストップしてしまったりするところなのでしょう。こちらとしてはどうフォローしたら良いものか


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