男の「偽装」、女の「偽装」
建築設計の偽装問題、"男は「偽装」がお好き"と言うMさんは、相変わらずスルドイですよね。
「タテマエとホンネ」といういいかたがありますが、そのタテマエが偽装ばかりでは困ったことになります。
建築屋だけに建前ばっかり、などとシャレてる場合ではありませんが(建前の語源が気になりますが)、最近は政治家のおっしゃる改革も偽装だらけだとか。
けれど、人類の歴史で男が行なった最初の偽装が、女の産んだ子を自分の子であると認めたことに始まるとしたら、男のウソもある程度はやむをえないのでしょう。でも今のはひどすぎます。みんなでつるんで偽装するわけですから。(もちろん一部の男だけなんでしょうけど)
その点、女の偽装は、自分を良く見せるのが主目的で、年齢や経歴を偽ったり、自分に中身がないのでむやみに飾り立てたり見た目の良い男を連れて歩いたり、あまり大勢の迷惑にはならないとは思います(これも一部の女だけなんでしょうけど)
トランスする人はどうでしょう。ふだん男を偽装しているのかといえば、そういうところもあります。けれどそれは生きていくため最低限やむをえないことなのでしょう。
SM談義
2、3日前ぼんやりテレビを見ていたら、サドとマゾについてコメントしていました。最近はお茶の間でもそういう言葉が聞かれるわけです。そのコメントでは、自己の快楽を追求するのがM、広い視野に立つのがS、ということでした。そういう見方もあるのかなというか、今風なんだろうなと思いました。
学生のころ読んだ小説や文芸評論などでは、一般に女性はサド的であり、男性はマゾ的な傾向があるというのが普通の認識でした。男性は働き蜂のように滅私奉公型のタイプが多く、女性は女王蜂で自分のホームグラウンドを守り支配するものという見方なのでしょう。SM論は一種の女性論・男性論として文学青年たちにも好まれましたが、日常の市民生活の中での話題になるようなことではありませんでした。
その後、日本の映像ポルノの世界では、写真集でマゾを演じるのは女性ばかりです。やはり女性の写真集でなければ売れないからでしょう。そして最初からそういう写真集だけを見てきた世代の人たちは、SMとはそういうものだと考えるほかはなく、Sをつとめるのは男性的で「広い視野」といった見方をするようになるのでしょう。今のM系の写真サイトを見ると、「自己の快楽の追求」という言葉に説得力を感じてしまいます。しかし本来のエロスは知的なものでなければならないはずです。映像優位の社会における一つのバリエーションといったところなのでしょうか。
男女の差の大きい時代
子どものころ、わたしが見た田舎の30代の女性たちは、いかにもオバサンにしか見えず、ときどき見かける派手な服装やお化粧の人は特別な職業の女性でした。今の女性たちはみんな綺麗に着飾って、とても魅力的に見える女性が多いです。
むかしのオバサンはたまにしかお化粧はしませんでしたから、少しこざっばりしたオジサンと見比べてみても、見た目の違いは、髪の長さや着てるもの……、そんなに大差はなかったわけです。胸の大きい女性も少なかったです。
江戸時代には男性も髪が長くて、髪の結い方が違うだけです。たぶん現代ほど、女性と男性で見た目の差が大きい時代はなかったのかもしれません(男性が額の上を剃るのは大きな違いですが)。服装は和服、これは巻きスカートのワンピースです。
新しい時代になって、男性だけが髪を切り、スカートの一種である和服を着るのを止めました。
見た目の男女の差が少ない社会では、トランスするのも容易だったかも。ほとんど髪の結い方を変え、服装を変えるだけですむでしょうから。
日本の文学、特に近世以前のものでは、美しい女性や少年をどう表現したかというと、肉体的な特徴にはあまり触れず、身につけているもの、服装や装飾品などについて実に細かく描写するのが特徴なのだそうです。目がパッチリ大きかったとは書かず、絵画でも伏し目の表情で描きます。百人一首の絵札のお姫さまたちも、顔かたちで区別することはできず、衣装で身分などがわかるらしいです。衣装や髪型を見て、位の高い人だとか、職業や社会的役割がわかるわけです。性別というのも、じつは衣装や髪型だけで判断しています。性別にしても、職業にしても、どちらも同じ次元の「社会的役割」として見られたようなところがあります。
だとすれば男性に生まれ女性として生きてゆくことは、より容易な社会だったことでしょう。
明治以後の社会でも、子どもたちについては、あまり男女の差はなかった時代が続きました。けれどだんだんと大人の服装の影響が浸透してしまいました。
トランスジェンダー哀歌2
何日か前にどこかで、「女性になることよりも、女性として何ができるかが大事」と書かれたページを見ました。つまり女性になることは目的ではなくて手段だということなのでしょう。
男女のあいだでもSexは目的ではなく手段であることに異論はないと思います。愛にとっての手段です。そう考えてくると、性行為だけでなく、性に関することはすべて手段だということになります。それがなくては成り立たないような重要な手段ではありますけど。
性の目的は子孫を残すこと、というより、恋人や配偶者だけでなく、子どもにも愛情をかけるのが目的なのでしょう。子どもができなくても別のものに愛情をかけることができます。ペットでも良いのでしょうが、濃密な関係は子離れまでで終わりにしなければなりません。たとえ何かはっきりしないようなものであっても、メッセージが伝わって、小さな反応があれば、喜びは何十倍にもなるのかもしれません。
女性になるのが目的なら、その人は女性ではないことになります。「当面のあいだは第一義的に考えて……」というのも、けっきょくその状態が固定してしまうことは政治の世界などではよくある話です。
目的というのは、手段によって毎日確認しなければ本当に壊れてしまうような繊細なものなのですが、何か将来あるべき立派な想像図が提示されたりすると、その目的のためには何をやっても許されるかのような心の荒廃が始まってしまいます。
熟年離婚
夫が定年を迎えたとき、突然妻が離婚を言い出します。「私はこれまでずっと好きなこともしないで我慢して来ました。これからの人生はもっと自由に、したいことをして生きたい」 妻はそう言って、夫の退職金の半分を手にしてアパートを借りました。そのときの彼女の年齢は夫よりも若く、まだ50代の後半にさしかかったばかり……。
こういう話を聞いたとき、あたしは以前は男性に同情的だったのです。でも今は少し違います。50代半ばになったら一人で自由な暮しができたらいいな……、そう思います。でもまだ20年?も先のことですけど(あたしの計算に間違いがなければです ^^; よく間違いますけどね)
婦人服サイズ表
今年買ったこの写真のスカートはウエストがゴムでした(最近多いです **ゞ)
そこで婦人服サイズのおさらいです。
| 婦人服サイズ表(単位; cm) 呼び方 S M L LL バスト 72〜80 79〜87 86〜 94 93〜101 ウエスト 58〜64 64〜70 69〜 77 77〜 85 ヒップ 82〜90 87〜95 92〜100 97〜105 身長 ・・・・・・154〜162・・・・・・ --- 日本工業規格 JIS L 4005 1997年版より --- |
「〜」の範囲が微妙ですが、バストはその範囲の中ほど、ウエストとヒップは範囲の細めの数字をとれば、7号(S)、9号(M)、11号(L)、13号(LL)ということになります。太目の数字をとればミセスサイズということでしょうか?。
9号はとても無理だということを思い知らされる一覧表です。UB78でCカップならB93で13号(LL)のエリアに入りかねません。
数字がたくさん並べてありますが、サイズ選びはアンダーバストを基準に、65=7号、70=9号、75=11号、80=13号と選ぶのが間違いないと思います(極端にバストの大きい女性でなければ)。UB78ならもう13号の領域なのでしょう
性差に関する話題が
毎日のDiaryになって半月が過ぎました。
8月ごろ男女のしぐさや動作のテーマにとりかかったり、月末に脳の「性別鑑定」のようなものを見たりしたため、性差に関する話題が多かったと思います。性別鑑定については今後もいろいろ突つきながら取り上げるのも面白いかもしれません。
それらの話題のいくつかで共通して問題となったのは、やはり明治時代に大きな歴史的変化があったということです。今の男らしさ、女らしさのうち、どうも男らしさのほうが後から作られたものである面が多く、軍国化が大きなきっかけであるようなのです。それは道徳観や生活習慣に始まって個人の動作やしぐさにまで及んでいるようです。現在の社会で女性的だと思われていることが、本来は男も女もない人間らしい共通のものであったという事例も、探せばいくらでもあることでしょう。そういうわけで現代の男性は、かなり息苦しい生活を強いられるのでしょう(※)。
けれど後から社会によって作られたものが悪いということでもありません。人間の文明そのものが後からの社会によってできたものです。文明の向かう方向に問題があるのでしょう。男や女や両方を兼ねる存在があって初めて恋が生まれ文学芸術もでき、人間の文明も成り立って行くわけで、どんな不自由な時代でも0から何かを作らなければならないことはないのでしょう。
(※ 女性はまた地域社会の援助も少なく子育ての責務の大部分を孤独に負わねばなりません)
男性の理想
男女の性差の特徴として、男は自立心が強く単独行動を好み、女は依頼心が強く集団行動を好む、と書いてあるHPがありました。どうでしょうね? なんとなく、恋人どうしや夫婦関係の中だけのことを言っているように見えます。女性が彼と一緒にいたいという気持ちを「集団行動を好む」と表現したのでしょうか。
人類の歴史をふりかえってみれば、いつも群れて行動してきたのは男性たちのほうです。狩猟にしても、戦争にしても、男性たちは一糸乱れぬ行動が得意でした。そのような行動では、上下の指揮系統が徹底していなければ危険に陥りますから、それが人間の上下関係に発展して、政治集団もできあがります。
女性はいざとなれば一人で出産も子育てもできます。他の女性たちと嫉妬しあう関係よりも、身内の中での関係を好むのかもしれません。家を守ることがとても宗教的だった時代には、女性はみんな巫女だったのでしょう。時代は婿取りの時代から嫁入りをする時代に変わってゆき、それはつまり、古代からの神が力を失った時代になった証拠なのかもしれません。
孤独な詩人や芸術家、孤高の学者、頑固な職人さんなどは、組織に生きる男性たちの憧れの存在です。才能さえあれば自分だってと思うでしょう。そこで男性たちは、せめて身近な技術やメカなどに没頭してゆくことになります。男性たちの憧れの芸術家や学者は、戦争社会が作り出した偽りの男性像とは違った、理想の男性の姿なのだと彼らは直観しているのかもしれません。
髪を切るとき
あるアンケート調査によると、最近は失恋して髪を切る女性は少なく、むしろ若い男性のほうが髪型を変える人が多いというお話。鳩子もそのくらいでは変えないかも??^^;
おじいちゃんの棺の中におばあちゃんが髪を切って入れてたような気がします。永遠のお別れだったのでしょう。
男は論理的?
9月2日
男は論理的で女は感情がこまやかで……そうじゃない人もいますよね。
鳩子もけっこう論理的に考えようとして、それで文章が長くなります。でもそうやって導き出された結論らしきものが本当にそうなのかすぐに疑問が湧いてきますから、もっと直感を重視して詩的表現にしたほうが書いてて気持ちいいわけなの。男性はそういう疑問が湧かないのかしら、ということは男は論理的というより単純なだけなのかも。けど、そういう単純さが可愛く感じられるかどうかはその人次第ですよね。
物理学や数学とか学校では苦手だったけど、聞いた話ではそういうのをつきつめて行くと単純な論理ではわりきれない神の領域みたいなものに近づくらしいです。でも精神分析とかが科学みたいな顔をして「性行動」を分類定義したりしようとするのは嫌になります。科学の仮面をかぶった猟奇趣味なんて言ったら叱られそうですけど。あたしたちの性の問題も、宇宙の始まりの場所へ行きついたほうが、ロマンチックで素敵。 (・・・「性別診断」の結果を見ながら思ったことでした。極端な表現があったことをお詫びいたします)
(もう一つ)
悩んでる人がいたら、話を全部聞いてあげて慰めたり一緒に考えてあげるのが女性的。適確なアドバイスを言うのが男性的。・・・という感じの診断だったかも。
おじさんたちでいますよね、話をよく聞かないで、アドバイスのつもりなんでしょうけど、いつのまにか自分の経験の自慢話をしてる人。何を話しかけてもアドバイスを求められていると錯覚している人。相手に全部しゃべらせるのがカウンセリングの基本です。それで、もっと辛い境遇の人もいるのよとか、恨まないであなたから愛情をかけてあげなさいとか、そういうのは「アドバイス」ではなくて「慰め」に分類されるのかしら。でも慰めてもらって何かを糸口に自分で解決するのがやっぱり一番でしょう。そういうのに男も女も関係ないでしょ?
(ちょっと会話調で書いたのは良くなかったかも。おしゃべりでうるさい女に見られないか心配です。本当は、おとなしくて相手に合わせる子なんですよね(#^,^#))
女らしいしぐさ?
動作やしぐさの女らしさや男らしさについて、少しまとまったものを書こうと思って、高城景子さんにも期待の書き込みまでしてもらいました。男女の体形の違いのデータも調べてみましたが、そういうのが根拠になっている男女のしぐさの違いというのも多少はあると思います。最初はそれがすべてだと思っていました。でも、違うように思いはじめたのは、小笠原流のことを少し調べてからです。小笠原流の解説では、綺麗な動きは腰が元になっていて、男女の違いはあまりないようなのです。
ではなぜ今、女性らしいしぐさというのを感じてしまうのでしょうか。たぶんそういう性差がはっきりと認識できるようになったのは近代以降のことではないかと想像します。女性の会話の言葉の最後につける「わ」は、大正時代の東京の女学生が使いはじめたということですが意外に新しいんですね。地方の方言では今でも言葉の性差は少ないと思います。しぐさの場合は、もう少し古いかもしれません。芝居や芸能の世界では、遠くから見ても男女の違いがわかるような誇張した動作があります。人気の女形のしぐさを世の中の女性たちが真似していったような話は聞いたことがあります。
けれど、やはりずっと昔の時代から、若い男女の間でのセックスアピールのしぐさの違いというのは、ないはずはありません。若い男女特有だったものが、どんどん世代を越えて広がっていったのかもしれませんし……?
★ただやっぱり今の男らしさと女らしさでは、男らしさのほうが不自然ですよね。女らしさのほうが時代の変化は少なくて、男らしさのほうが虚構が多いような気がします。
「もう男(女)ではない」
「紫陽花」の季節にそういう題名の小説(吉行淳之介)をぱらぱら見てたら、子宮筋腫の手術をした老女が「私はもう女ではないから」とつぶやく場面がありました。そういう言い方をする女性は、よくいます。ところが、男性で陰嚢摘出手術を受けた人が「自分はもう男ではない」と言うケースは、滅多にないことでしょう。言ってもいいのに……
更新 詩集〜迷い道の野苺 できはいまいちかも。
(桑の実をイメージして最初「野葡萄」の題でしたが翌日に訂正。)
小笠原流?
4/20に綺麗な姿勢や動作について書きましたが、男女の体形の差による姿勢・動作の違いは本来はかなり小さく、戦後の社会慣習に違いの原因があるものが多いような話になるでしょう。いかにもオジサンの身振りが若い男性にも広がったとみるべきです。そこで参考になるのはやはり「小笠原流」?
更新 collage〜「シンメトリー」。数日前に another planet に投稿のものを手直し。タイル形式の壁紙にして左右がぴったり合うように修正したもの。
12日
「アルバム2004〜春の森へ(2)」を追加。(ただしあとで一つにまとめる)
細腕繁盛記
まもなくホームページを始めて一年、われながら、よくがんばったといえるかもしれません。こういうのを"細腕繁盛記"というのでしょうか。
ネット検索をすると、HPの日記のタイトルを「○○の細腕繁盛記」としている人がけっこういます。旅館の若女将、小さな店をきりもりしている女性、OLをやめて何かを始めた独身女性たちです。彼女たちは普通の男性にも負けないものを持っているのでしょう。私の場合は、男ニモマケズ、女ニモマケズ?でしょうか。
(7日に補足)何か書き忘れたような気がしてました。もし本当の女性に生まれていたら……という質問が昔よくあったのですが、そうだとしても、もし一人で生きていかなくてはならないなら、男まさりのことをしてでも頑張らなくちゃならないんだと思います。おしゃれのことなんか、かまっちゃいられないかもしれません。それはそれで素敵な人生。あたし自身がこうでなくちゃということは、あまりないのかもしれません。男でなきゃできないようなことを頼まれたとしても、ちょっと頑張ってみようかと思うでしょう。そんなことを考えると、本当の女性にならなくても、今と同じじゃないかって思ったのです。
初めに言葉ありき?
「初めに言葉ありき」とは聖書の言葉ですが、要するに、"女性であれ!" と言えば女性になるのです。古代の日本でも「言霊(ことだま)」という良く似た考え方があり、言葉を発すればそのようになる、というか、言葉の中に魂があり、肉体をはじめとした「物」にも魂がこもっているので、魂どうしが感化しあうということなのでしょうか。
もしあらゆるものが肉声を発したとしたら、男の声と女の声のように、私たちはそれらのいくつかを聞き分けることができるでしょう。
肉声のともなわない文章のなかにも、男の言葉と女の言葉の違いがあるから不思議です。女性のワ、ヨという言葉を使わなくても女性らしい文章があります。
(別の話)女性らしい気持ちになることはとても大切なことだとは思います。でも年齢が年齢だけにお節介おばさんのようにならないように注意しないといけないかもしれません。